松代城(まつしろじょう)は元々「海津城(かいづじょう)」と呼ばれ、武田信玄が信濃へ侵攻する際の拠点として築いたとされています。
松代城の歴史
川中島の戦いの最前線基地
海津城の築城は、武田家の有名な武将、山本勘助(やまもと かんすけ)が中心となり、1559年から開始され、翌年には完成しました。
千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、1561年、上杉謙信が川中島へ侵攻すると、武田の家臣・春日虎綱(かすが とらつな)は海津城において篭城(ろうじょう)し、信玄本隊の到着を待ち、第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で最も激しい「第四次川中島の戦い」が行われました。
松代藩の政治の中心となった松代城
武田信玄の死後、城主はめまぐるしく変わっていきましたが、1622年、真田信之(さなだのぶゆき)が上田城より移って松代藩主となると、新田開発、城下町建設に努め、松代藩の基礎を固めました。
1600年の関ヶ原の戦いで父・真田昌幸(まさゆき)、弟・真田幸村(ゆきむら)と別れて徳川方に付いた真田信之。
【上田城】徳川を2度退けた!真田昌幸が築いた名城の歴史と見所を写真で辿ります
関ヶ原の戦い後に幽閉されていた父・真田昌幸が亡くなり、大阪夏の陣で弟・真田幸村も亡くなりましたが、真田信之は戦国時代を知る戦国武将のひとりとして、第3代将軍・徳川家光をはじめ世の人々の尊敬を集め、松代で90歳を超える長寿を全うしたのでした。
国の史跡に指定された「松代城」
1872年(明治5年)、松代城は廃城となり、長い間石垣を残すのみでしたが、1981年(昭和56年)、新真田邸とともに国の史跡に指定されました。その後、長野市により環境整備工事が行われ、2004年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元されました。
残念!工事中の松代城を(一応)観光した
大きな堀に囲まれた守りが強固な松代城
北側に千曲川が流れ、東と南を大きな堀が囲む城は守りの固い城でした
太鼓門(たいこもん)と太鼓門前橋(たいこもんまえばし)
本当はアーチ状の前橋がかかり、渡ると美しい内堀と本丸石垣の風景を楽しむことができるのですが、工事中のため橋自体がありませんでした・・・。また来たい。。
藩士に登城時刻などを知らせる太鼓が備えられていたことから「太鼓門」と呼ばれています
東不明門前橋(ひがしあかずもんまえばし)
正面の太鼓門が工事中のため堀を渡れる橋は、この「東不明門前橋(ひがしあかずもんまえばし)」だけでした。「東不明門」は正門である「太鼓門」が使用不可の場合に使用された門とのことで、まさに今現在のような場合に使う門だったわけですね。
北不明門(きたあかずもん)
河川敷と接する裏口的な門として、北不明門(きたあかずもん)があります。
桝形(ますがた)とよばれる二重の門によって構成されています。外につながる高麗門(こうらいもん)は、当時千曲川がすぐ外側を流れていたため「水ノ手御門(みずのてごもん)」とも呼ばれていました。
二重の門の間の広場には鉄砲で迫る敵を攻撃する穴が並びます
戌亥櫓石垣(いぬいやぐらいしがき)
自然の石を積み上げた「粗加工石積み」の技法が用いられた石垣です。
松代城内で最も古い近世初頭の石垣といわれています。
この日は櫓台の上から北アルプスの雪山が望めました。