平将門の首を供養する「将門塚(まさかどづか、しょうもんづか)」
東京メトロ大手町駅から徒歩3分という大都会のど真ん中に存在する「将門塚」。ここは平安時代、関東の八ヶ国の国司を追放した平将門の乱を起こした平将門の首を供養するために建てられた石碑です。そして歴史上のエピソードだけでなく、現代でも祟り(たたり)と畏れられた数々のエピソードが存在します。
エリートの家系ながら出世しなかった将門
平将門は平安京を造った桓武天皇の5世の孫として生まれました。15,6歳頃には平安京に上り、藤原氏に仕えましたが、エリートの家系で父親も高い位に付いていたにも関わらず、思うように出世できませんでした。京で12年間勤め、出世の見込みがないと悟り、仕方なく地元の下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市)へ戻りました。
親族の争いの中で覚醒した将門
将門の父の良将(よしまさ)が亡くなると、親族同士の領土をめぐる争いが始まりました。この争いのなかで将門は叔父を殺害し、徐々に戦の才能を発揮し始めます。父・良将の領土下総国をはじめとして常陸国、上総国など関東の地を次々と支配下に置いていきました。
関東の民のため乱を起こした将門
この頃、民衆は多くの税を納めなければならず、また、たびたび戦にかり出されて苦しんでいましたが、追い打ちをかけるように937年に富士山が大噴火。民衆の困窮がいよいよ深刻化する中で、将門は領民を救うため関東一帯を支配するまでになり、「新皇」を名乗って朝敵となりました。これが後に言う「平将門の乱」です。
無念の討ち死にから将門塚へ
朝敵となった将門を討つべく、関東にいた平貞盛と藤原秀郷が下総国猿島郡を急襲。940年2月14日、強風中の激戦の末、額に流れ矢が命中し将門は38年の短い生涯を閉じます。将門が関東を支配したのは、わずか2ヶ月でした。
その後、討ち取られた首は京都の七条河原にさらされ、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれています。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んで行き、落ちたとされる数か所の伝承地はいずれも「平将門の首塚」として祀られています。
中でも東京大手町の「将門塚(まさかどづか、しょうもんづか)」は丸の内周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去し造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めたという事件がいくつもあり、最も畏怖の念を集めています。
大手町の将門塚 今も続く将門の祟りが?
ビジネス街大手町のビルの谷間に、今も残る「将門塚」。撤去、移動させる試みが過去に何度もありましたが、そのたびに祟りとも思えるような事件が起きました。
例えば、戦前、この場所にて旧大蔵省の建設中のこと。当時、将門の首塚は大蔵省の中庭にありましたが、関東大震災で省舎が崩壊したため、将門の首塚の場所を更地にし、その上に仮庁舎を建設する計画が立てられました。
しかし、仮庁舎の工事中、大蔵大臣の早速整爾が急死してしまい、さらに大蔵官僚や工事関係者ら14人が続々、不審な死を遂げたとのことです。将門の祟りを恐れた関係者は結局、仮庁舎を解体し、将門塚は復元されました。
また、太平洋戦争後にはGHQの関連施設の工事のために、首塚を撤去する計画が持ち上がりましたが、工事の重機が横転し、運転手らが死亡する大事故が起きました。またしても将門の祟りの噂が流れ、GHQの計画は白紙に戻ったのでした。
更に高度成長時代、首塚の一部が売却され、その土地に建った日本長期信用銀行の首塚に面した行員が次々に病気となり、おはらいをしたという話もあります。
そして2020年11月、将門塚自身の改修工事がはじまりましたが、同月25日に茨城県南部を震源とするM4.3の地震が発生し、茨城県には平将門を祀る神社などが存在していることから、将門の祟りを心配する声も出ていました。
しかし、今回の改修工事は「1961年の第1次整備工事以来、数えて第6次目」であり「敷地内の安全性と管理性の向上を目指す」(将門塚保存会のサイトより)とのことですので、祟られる心配は少ないようです。
祟りだけではない!将門塚はご利益を授かる大都会のパワースポット
長い年月、祟りを恐れられ、ビジネス街のど真ん中に居座った「将門塚」ですが、元々は民衆のために初めて反乱を起こした武士であり、現代では「弱きを助け悪を挫く(くじく)」勇士として敬われています。
そのためポジティブな見方をする人にとっては勇気と決断力を与えてくれるパワースポットとして人気があり、必勝祈願、仕事運、学業成就、縁結び&恋愛成就、金運アップ、厄除けなど勝負ごとにご利益があると信仰されています。
恐れと畏れが混在する平将門の「将門塚」は、参拝に来た人にとって荘厳な空気を感じさせる都心のパワースポットなのです。
2023年4月追記:改修された将門塚を参拝
2020年11月から2021年4月まで改修工事を行い、広々とした明るい「将門塚」になりました。工事開始直後には将門公ゆかりの地である茨城県でM4.3の地震が発生し、「再び将門公の祟りか」とざわついた時期もありましたが、無事工事は完了しました。