真言宗の布教のため玉蔵院を建てた空海
774年、讃岐国 (さぬきのくに:現在の香川県) に生まれた空海は18歳で京の学校に入り、勉学に励んでいました。しかし、それでは物足りなかった空海は、19歳で山林での修行に入り、儒教、道教、仏教など様々な教えを学び、それでもなお、納得する教えに出会えず俗世の教えが真実でないことを悟ります。そして31歳で遣唐使の一行として唐に渡りました。
唐に渡った空海は長安の都に入り留学生活を始めました。 805年 に真言密教の正統な伝承者である青龍寺の恵果和尚(けいかおしょう)と対面を果たします。
唐で右にならぶ者のない名僧だった恵果は、空海に会った瞬間、次の伝承者としてふさわしい人間であることを感じ取り、法を正式に伝える儀式を行いました。
こうして、空海は異例の速さで真言密教の第八代の伝法者の地位についたのです。 密教とは生きているうちでも精進すれば成仏できる可能性があるという教えで、生きながら仏になれる「即身成仏」を説いています。
恵果和尚 は全てを空海に伝えたあと、息を引き取りました。空海と会ってからわずか6ヶ月でした。空海の留学予定は20年間という長期でしたが、 恵果和尚の「 私の持っているものをすべて授けた。だから早く日本に帰り、この教えを持って天皇に仕えて、国の平安と人々の幸福を祈りなさい 」という最後の言葉 に従い、わずか2年で帰国の途に着いたのでした。
このころの日本では朝廷の権力争いや、宗教の勢力争いなどにより、人々は悲しみと不安で疲れ果てていました。嵯峨天皇は、国家の安定と国民の不安をいかにしずめるか悩んでいました。空海は、国を安定させるためには新しい仏教が必要であると申し出、天皇はその提案を受け入れました。この時より「真言宗」という宗旨を開く許しを得て、いよいよ真言密教を 日本に広めることになったのです。
平安時代初期に弘法大師(空海)により創建されたと伝えられる「浦和 玉蔵院」も、人々の心の平安を願う嵯峨天皇と空海が、真言密教を布教するために建てた寺院なのでしょう。
空海の再来と言われた印融が復興した玉蔵院
空海が建てたと言い伝えられている玉蔵院ですが、戦国時代の1500年頃には印融(いんゆう)という僧が復興したと伝えられています。
武蔵国(神奈川県)に生まれた印融は幼いころから仏教などを学び真言宗を代表する僧となりました。戦で荒れ果てた世の中で真言宗の衰退を嘆いた印融は多くの弟子を育て、いくつもの寺院を復興させたそうです。85歳で亡くなるまで膨大な数の書物を書き、その分野は真言宗にとどまらず、美術、建築、音楽など多岐に渡りました。そしてそれらを元に弟子の育成を熱心に行った姿は、後に空海の再来と崇められたのです。
玉蔵院の門前町として栄えた浦和
玉蔵院の他にも約2000年前、崇神天皇(すじんてんのう )により建てられたといわれる「調神社」をはじめ、浦和には長い歴史を持つ古刹が多く、古くから門前町として栄えていました。
江戸時代には五街道のひとつとして中山道が整備され、浦和には日本橋から数えて3番目の宿場が置かれ、宿場町としても発展を遂げましたが、旧中山道沿いには、今でも古い街並みが残り、浦和の歴史を感じることができます。
樹齢100年以上の玉蔵院のしだれ桜
毎年桜の時期には本堂横の樹齢100年以上のしだれ桜を見に沢山の人が訪れます。 狭い境内のため、中で宴会などはできませんが花見客が撮影のため列を作ります。
浦和 玉蔵院の地図