東京の港区虎ノ門にある愛宕神社は、徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり、慶長8年(1603年)に江戸の防火・防災の守り神として建てられました。
東京23区内で最も高い自然の山『愛宕山』にあり、『防火』、『防災』、『開運』、『縁結び』などのご利益が一杯の神社ですが、特に『出世』に関しては、有名なお話があります。
愛宕神社へと登る「出世の石段」
愛宕神社へと登る階段は通称『男坂』と呼ばれ、非常に斜度のきつい石段です。
寛永11年(1634年)、三代将軍の徳川家光が、愛宕山の満開の梅を眺め、『誰か、馬にてあの梅を取って参れ!』と一緒に居た家臣達に言い付けました。しかし、歩いて登るのもきつい急坂を馬で登るのは至難の技。皆が尻込みしているところでしたが、1人の家臣が馬でパカッパカッと登り始めました。
「あの者は誰だ」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
平九郎は無事に石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上しました。
「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は「日本一の馬術の名人」と称えられ、その名は全国に広まったそうです。
それ以来、愛宕神社へと登る正面の階段は『出世の石段』と呼ばれるようになり『出世の石段』を登ると仕事運・出世運アップのご利益があると言われています。近所の企業の重役達も、年明け仕事始めの日には出世の石段を登り(自分自身は十分出世していますが)、商売繁昌・社内安全を祈願して愛宕神社に参拝するのです。
女坂は愛宕神社からの下り専用?
出世の石段は「男坂」と呼ばれていますが、一方で出世の石段よりはちょっと緩やかな「女坂」と呼ばれる階段が、出世の石段を迂回するように存在します。
愛宕神社を参拝した帰りに出世の石段を下るのは演技が悪いとの考えから、帰り(下り)は「女坂」を降りるのが正解と言われていますが、単純に急な「男坂」を下るのは危険なため、「女坂」を下るよう案内されているとも考えられます。また、年配の方や女性が登りやすいように、後で設けられたとの説もあります。
実は「男坂」「女坂」と呼ばれる階段は他のいくつかの神社にも存在していて必ず「男坂」の方が急坂となっており、参拝前に気を引き締める険しい「男坂」と優しく向かえる「女坂」を用意するのは老若男女に参拝してほしいという神社側の共通の願いからなのかもしれません。
「児盤水(こばんすい)」の言い伝え
(以下、 児盤水の滝の案内板の説明です )
昔この愛宕の地に児盤水(又は小判水)と云う霊験あらたかな名水が湧き出ていました。承平三年平将門の乱の時、源経基と云う人がこの児盤水で水垢離をとり愛宕様に祈誓をこめ神の加護により乱を鎮めたと云うことが旧記にのっています。然し現在では昔を偲ぶものとてありません。幸い都心に聳え立つ緑の名跡愛宕山にゆかりも深い児盤水の名をとどめ昔を偲び東京の新名所としてご参詣の皆様に神のお恵みと心の安らぎを得ていただければ幸いと存じます。
桜田門外の変に向かう藩士が愛宕神社に集合
1860年3月、幕府の大老 井伊直弼は、 江戸城桜田門外で水戸浪士17人と薩摩藩士1人に襲撃され、首を刎ねられました。幕末の大事件の一つ「桜田門外の変」です。
井伊直弼は将軍の世継ぎ問題や、日米修好通商条約の締結について朝廷や水戸藩と対立しており、反対した武将や文化人が多数処罰されました。水戸藩はこの「安政の大獄」を打開すべく、井伊直弼の暗殺を計画したのです。
そして、なごり雪の降る安政7年3月3日(1860年3月24日) 、水戸藩士 + 薩摩藩士の18名は愛宕山に集結し、愛宕神社で必勝祈願をして桜田門へ向かったとされています。 愛宕神社の総本社となっている京都の愛宕神社には本能寺の信長を討つ前に明智光秀が戦勝祈願をしており、本懐成就のご利益は全国の愛宕神社で信仰されていたようです。
勝海舟と西郷隆盛の会談
江戸城が徳川幕府から新政府へ開城される1ヶ月前、幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談が、ここ愛宕山で行われたと言われています(詳しい話し合いは別の場所だったようですが)。
新政府軍は江戸城開城を要求して江戸の町に火を放ちながら攻め込む計画を立て、幕府側も町を火の海にして防戦する覚悟でした。そんな中、両軍を代表して愛宕山に立った二人は、過去にもこの国の未来を語り合っていた仲でした。
かつて勝海舟は幕府が派遣する使節団に加わり、アメリカに渡って近代的な町並みや進んだ産業を目の当たりにし、日本と欧米との差を実感していました。
日本国内で開国か鎖国かをめぐって争いが激しくなってくると、イギリスやフランスなど西洋の列強の植民地になってしまうのではないかという危機感をつのらせ、薩摩藩士の西郷隆盛に語りました。
「今は日本人同士が争っている場合ではない。日本が一つにならねば西洋列強に対抗することはできない」
勝海舟の国際的な発想は西郷隆盛にも大きな影響を与えていました。
愛宕山であらためて向かい合った二人は江戸の町を眺め、「この江戸を火の海にしたくない。江戸の町と江戸の人々の命を守りたいとい。」という思いで一致したのでした。
この二人の会談により、江戸城を政府軍に明け渡し、政府軍の総攻撃は中止となり、徳川慶喜も処刑を免れ、だれひとり犠牲にならない穏やかな和平「江戸城無血開城」が実現しました。
終戦の日の愛宕山事件
太平洋戦争の終戦の日、1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾し連合国に降伏することが昭和天皇の玉音放送によって発表されると、降伏に反対する右翼団体の12名が愛宕山に篭城しました。彼らは同じ志をもつ抗戦派軍人の決起を期待し、これに応えるため日本刀や拳銃、手榴弾等で武装していました。
これを知った警視庁では約70名の警官隊を動員し、愛宕山を包囲、投降を呼びかけました。決起した軍人らは説得を拒否し立て篭り続けたため、22日午後6時頃、警官隊が発砲し突入、追いつめられた軍人らは手榴弾で自決を図り、10名が死亡、2名が捕えられたのでした。
愛宕山は放送のふるさと
1925年3月、東京芝浦の仮放送所から、日本のラジオ第一声が流れました。 アナウンサーは、「ジェイ、オー、エー、ケー(JOAK※)」とゆっくり第一声を発したのでした。 (※JOAKは無線局の識別ができるようにするための符号 )
そしてその年の7月、いよいよ愛宕山で本放送が始まり、愛宕山は「放送のふるさと」と呼ばれるようになりました。
放送のふるさと「愛宕山」の愛宕神社の横には1956年、世界最初の放送専門のミュージアムとして、「NHK放送博物館」が開館され、放送の歴史に関するさまざまな実物展示をはじめ、だれもが自由に利用できる「番組公開ライブラリー」や「図書・史料ライブラリー」などが公開されています 。