東北最大の大名家に生まれた政宗
伊達家は鎌倉時代、源頼朝に従い、奥州合戦で戦功を挙げて伊達郡の地を与えられたのがはじまりと言われています。
伊達政宗のひいおじいさんは「陸奥国守護職」という高い地位に着いており、おじいさん、お父さんも織田信長・徳川家康などの関東への侵攻を見据えながら東北周辺の大名と縁組を行いながら勢力を拡大していきました。
1567年8月、伊達政宗はそんな東北最大の大名家の嫡男として生まれました。
戦国武将になれなかった政宗
政宗が生まれたころは、織田信長・毛利元就・武田信玄など多くの武将が活躍する戦国時代でしたが、成人するころには豊臣秀吉が、ほぼ天下を手中に収めていました。
政宗も代々の伊達家の当主と同様に優れた外交と戦略で東北地方で勢力を拡大していきましたが、やがて豊臣秀吉から上洛して従う意思表示をするよう求められます。同盟関係のある相模・小田原城の北条氏からは協力して秀吉に対抗しようと誘われており、政宗は態度を保留していました。
しかし1589年、秀吉から小田原攻めに参陣するよう要求する書状が届き、いよいよ決断をせざるを得ない状況に追い込まれました。伊達家では何回も会議が開かれ、豊臣秀吉と戦うか従うか議論を重ね、小田原攻めが始まってから4か月も過ぎてから参陣しました。
秀吉が相当怒っているであろうことを予測した政宗は白装束(=死に装束)姿で秀吉の前にひれ伏しました。その政宗の首を杖でつつきながら秀吉は「もう少し遅れたらここが飛んでいたな」と言いながらも他に罰を与えることはなく、許したのでした。
秀吉としてもすでに東北を支配している政宗が、そのまま自分に従う方が都合がよく、こうして政宗は争うことなく豊臣政権下に入ったのでした。
杜の都 仙台の礎を築いた政宗
豊臣秀吉が死去すると、政宗は徳川家康に従います。関ヶ原の戦いが終わった翌年には仙台にて青葉城(仙台城)の建設と、その城下町の整備を開始します。青葉山に建てられた城は「日本の中でも最も建設技術に優れ、最も堅固な要塞」と言われ、仙台藩は東北の要として機能し、米の生産量は莫大で、江戸で消費される米の三分の一は仙台藩産でした。
武の才能は発揮しきれなかった政宗ですが、経営・外交の手腕を生かし、太平の世に美しく整備された杜の都の礎を築いたのでした。