【瑞鳳殿】伊達政宗が眠る仙台のお墓の歴史と見所を写真で紹介

伊達政宗の霊を祀る「瑞鳳殿」

伊達政宗の遺言に沿い、息子 忠宗が建立した「仙台 瑞鳳殿」

1636年、伊達政宗は江戸で70年の生涯を閉じました。

同年の正月ごろには自分の死期を悟り、家臣に自分の墓の場所を、青葉城の東側を流れる広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峰(仙台市青葉区)にするように命じていました。

そして同年5月、体調の悪化が進む中を参勤交代のため江戸を訪れていましたが、24日の早朝、70年の生涯を閉じたのでした。

伊達政宗が杜の都に築いた要塞の歴史と見所を写真で紹介

死去の翌年、遺言どおり政宗を葬った経ヶ峯の地に、2代藩主・忠宗が造営したのが霊屋「瑞鳳殿(ずいほうでん)」です。

小高い山の上にある瑞鳳殿に行くには結構な坂道を10分程歩く
さらに階段を登る・・・
本殿に向かって最初に通る「涅槃門(ねはんもん)」

涅槃(ねはん)とは煩悩(ぼんのう)を取り払った悟りの境地となる状態を意味し、広くは来世(らいせ)という意味になる・・・そうです。

涅槃門(ねはんもん) を通って階段を登る
次は拝殿を通る

拝礼のために整えられた施設。焼失前の拝殿は瑞鳳殿の床面と同じ高さになっており、正面扉を開けると、瑞鳳殿内に安置された政宗の御木像に拝礼することができたそうです。

最後に唐門 を通って本殿へ

伊達政宗を追って殉死した20人の忠臣

江戸時代の初めには、死んだ主君のあとを追って切腹する「殉死」という風習があり、伊達政宗の死去に際しても家臣15名と家臣に仕えた陪臣5名の計20名が後を追って殉死しました。

殉死者供養塔

「忠臣は二君に仕えず」という主君への忠誠を示す「殉死」は美徳とされており、殉死ができるのは生前に主君から許可を受けた者のみで、勝手に切腹しても殉死とは認められなかったそうです。そのことからも殉死は感情的な行為ではなく、意外と冷静に義理や慣例として行われていたことがわかり、実行する本人や家族の気持ちは現代の我々にはちょっと想像しにくいものがあります。

殉死者供養塔の説明。殉死者の氏名も記載されています。

実直な二代目 伊達忠宗

瑞鳳殿を建立した二代目藩主 伊達忠宗は1636年、父政宗が亡くなり38歳で家督を継ぎ二代藩主となりました。

世はすっかり天下泰平。徳川幕府が治める江戸時代でしたが、戦国武将に憧れる伊達忠宗は、鉄砲や弓術などに秀で、また狩りなどを頻繁に行うなど、武勇に富んでいました。

一方で仙台東照宮をはじめとする寺社の造営や、正確な年貢を定めるために総検地(測量)を行ったり新田開発を行うなど堅実に仙台藩の基盤整備を行い、後に「守成の名君」と呼ばれるようになりました。

1658年7月、60歳で他界した伊達忠宗にも豪華な霊屋「感仙殿」が四代目の伊達綱村によって建てられたのでした。

二代目 伊達忠宗の霊屋「感仙殿」

政治よりも芸術 三代目 伊達綱宗

1658年、伊達忠宗の死去により、綱宗は19歳にして仙台藩の三代目藩主となりました。しかし、わずか2年で幕府から隠居(クビ!)を命じられます。その理由については酒・女遊びがヒドかったのが原因と言われているのですが、家臣による陰謀説もあり、真相はわかりません。

クビになった綱宗は江戸品川の屋敷で、幼少の頃より恵まれていた芸術的な才能を発揮し、和歌、絵画を書き、工芸や刀剣など各分野で作品を遺しました。

そして1711年6月、品川屋敷で72年の生涯を閉じた綱宗にも、豪華な霊屋「善応殿」が五代藩主 伊達吉村によって建てられたのでした。

三代目 伊達綱宗の霊屋「善応殿」

仙台 瑞鳳殿の地図