長野の善光寺は約1,400年の歴史を誇る寺院です。 日本最古の仏像を本尊とし、「遠くとも一度は詣れ(まいれ)善光寺」と言われているように全国的に有名で、多くの国宝や重要文化財を観ることができ、年間約600万人の参拝客が訪れます。
「善光寺」のはじまりは善光さん
善光寺の御本尊は、西暦552年、インドから朝鮮半島の百済(くだら)国を経て、仏教伝来とともに伝えられた日本最古と言われる仏像「一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)」です。善光寺如来とも呼ばれています。
日本に渡った善光寺如来はなんとその後、疫病流行の厄落としとして捨てられてしまいました。
その仏を朝廷の役人として働いてた本田善光(ほんだ よしみつ)さんという意外と普通の人?が発見し、信州の地に安置し、お寺をご開山したことから、「善光さんのお寺(善光寺)」と呼ぶようになったそうです。
「善光寺」は昔からジェンダーレスなお寺
善光寺が全国的に有名になったのは、平安時代の終わりごろです。
当時は大きくて有名なお寺は「女人禁制」が当たり前でした。
しかし善光寺の御本尊である善光寺如来は「おすがりする者はすべて極楽往生を約束してくださる仏さま」として知られ、女性も救う寺として全国から老若男女が訪れるようになったのでした。
善光寺信仰が広まった鎌倉時代
源氏と平家が争っていた時代、落雷によって善光寺は焼失してしまいます。 源頼朝(みなもとのよりとも)は、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、初代征夷大将軍になった後、4年の歳月をかけお堂を再建したのでした。
その後も鎌倉時代を通して源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、いろいろな堂を建てたり農地の寄付を行いました。
善光寺に対する信仰が広まるとともに、御本尊の分身として彫られた像が多く造られ、全国各地にはそれをお祀りする新善光寺が建立されました。
「前立本尊(まえだちほんぞん)」も鎌倉時代に作られ、現在も絶対秘仏(誰も見ることができない)の御本尊のお身代わりとして7年に一度の「御開帳」で人々の前にそのお姿を現します。
御本尊が各地を転々とした戦国時代
善光寺平(ぜんこうじだいら)で上杉謙信と川中島の合戦を繰り広げた武田信玄は、善光寺の焼失を恐れ、1558年に御本尊や各種宝物、寺僧なども含めて寺を運営する組織を丸ごと甲府に建立した「甲斐善光寺」に移しました。
その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、織田信長の長男である信忠が善光寺如来を本拠地である岐阜の「岐阜善光寺」へ移します。
信長が本能寺の変で倒されると、徳川家康が浜松へ、そして豊臣秀吉が京都へ移し、地元の寺の御本尊としました。
しかし、権力者の勝手な移転の連続に、善光寺如来さまも流石にお怒りになられたようで、豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来さまのたたりだと噂されるようになりました。
秀吉の死の直前、善光寺如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになったことで、善光寺如来像は1598年、四十数年ぶりに信濃の善光寺にお帰りになったのでした。
江戸時代~近代
戦国時代に荒廃した善光寺や門前町ですが、江戸時代になると徳川家康から金品など様々な寄付を受け、次第に復興を遂げていきました。
大きな火災による焼失も何度となくありましたが、火災後の再建に掛かる資金の多くは、御本尊の分身仏である前立本尊(まえだちほんぞん)を奉じて全国各地を巡る「出開帳(でがいちょう)」を行い、全国の信者からの寄付によって再建してきました。
1953年、本堂が国宝に指定されました。
また、1965年には山門と経蔵が重要文化財に指定されました。
1998年には、善光寺がある長野市で冬季オリンピックが開催され、開会式では、善光寺の梵鐘(ぼんしょう)が世界平和の願いを込め、全世界に向けて鳴り響いたのでした。
善光寺境内を巡る
大門の交差点の駐車場がベスト
善光寺周辺にはたくさんの駐車場があります。公式サイトにも親切な案内・満車状況が表示されます。
この日は御開帳の期間も過ぎた平日のため、最も便利で混みそうな「大門町パーキング」にも駐車することができました。
ここから仁王門までは約200mの石畳の表参道。仁王門を通って善光寺参りがはじまりますが、その手前も石畳が敷かれ、宿坊が並んで雰囲気があります。
仁王像が睨んで迎えてくれる
そして仁王門。2体の仁王像、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が迎えてくれます。
2体のお名前「阿形(あぎょう)」と「吽形(うんぎょう)」は「阿吽(あうん)の呼吸」の阿吽から来ています。
「阿」には「物事の始まり」、「吽」には「物事の終わり」という意味があります。そのため、阿形像は口を開けて「物事の始まり」を表現しており、吽形像は口を閉じて「物事の終わり」を表現しています。
次にくぐる「山門」に向かって「仲見世通り」が続きます。
源頼朝の参詣(さんけい)の言い伝え
山門の手前には、源頼朝が乗った馬が蹄を穴に挟んでしまったと言われる駒返り橋(こまがえりばし)があります。
善光寺を再建した源頼朝は1197年に参詣し、乗っている馬がここで蹄を穴に挟んでしまい、この先は徒歩で参拝したという伝説が残っています。
六地蔵(ろくじぞう)と濡れ仏
駒返り橋を渡ると、山門に向かって右に「六地蔵(ろくじぞう)」が並んでいます。
この「六」は仏教の六道、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天を表していて、六つの世界で人間の苦しみを救ってくださると言われています。
六地蔵の隣には濡れ仏と呼ばれる大仏(延命地蔵)があります。江戸の大火を出した八百屋お七の冥福を祈って立てたという言い伝えがあります。
善光寺の展望台「山門」
山門は上層階に上ることができ、周囲360度を見渡すことができます。
仏足跡
仏足跡(仏足石)はお釈迦様の足跡を石に刻んだものです。古代からお釈迦様を表す象徴として礼拝の対象とされてきました。
大香炉(おおこうろ)
有名な大香炉の煙。体につけると無病息災のご利益があるそうです。
お戒壇(かいだん)めぐり
本堂の、内々陣(ないないじん)と呼ばれる奥の方へ進むと、「お戒壇めぐり」の下り口となる階段があります。
階段を下りると真っ暗な回廊を巡り、御本尊様の真下に懸かる「極楽の錠前(ごくらくのじょうまえ)」と言われる突起物に触れることで、真上の御本尊様と結縁を果たし、極楽往生の約束をいただけるとのことです。
回廊の中は本当は本当に真っ暗で、右側の壁を手で触りながら恐る恐る進みます。右手に突起物が当たるとそれが「極楽の錠前」なのです。
距離は45mとのことで結構長く感じましたが、すぐ後ろの家族連れが騒がしかったため、あまり荘厳(そうごん)な気分には浸れませんでした。人気のスポットなので仕方ないと思いますが・・・。
日本忠霊殿(にほんちゅうれいでん)
戊辰(ぼしん)戦争〜第二次世界大戦で戦死された英霊(えいれい)方を供養している「日本忠霊殿」
経蔵(きょうぞう)
中に押し廻す柱があり、一周すると中の総ての経典を読むことと同じ功徳を得るといわれています。
経蔵前にある輪廻塔です。
石の輪を回すことで功徳を積み、極楽往生ができると言い伝えられています。
(勢いよく回したら、ぐるぐると暫くの間回っていました。回せば良いというわけではないのでしょうが・・・。)
御朱印
本堂前の御朱印所で御朱印をいただきました。