【武田神社】3種の御朱印が人気の神社の歴史と見所を写真で紹介

武田氏の拠点「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた) 」

武田神社は甲府盆地の北端に所在し、武田氏3代の拠点となった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の跡地に建てられた神社です。

躑躅ヶ崎館は武田信玄の父、武田信虎(たけだのぶとら)が1519年に築き、家臣がその周囲に住居を構えて武田の城下町が拡がり、武田氏3代の拠点として甲府の政治の中心地となりました。

武田神社から かつての城下町を見下ろす

武田家の盛衰

 武田信玄の父、武田信虎(たけだのぶとら) は1507年に武田家の家督を継ぎました。当時、既に甲斐の国(山梨県)の守護となっていた武田家ですが、家督を狙う親族や反対勢力の争いが絶えず、信虎は武力と政略結婚で国の安定を図り、1532年には甲斐統一を成し遂げました。
 また、水害を受けやすかったそれまでの住居から、新たな居館(きょかん) 躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を建て、家臣を城下に集めて現在の甲府の基を築いたのでした。
 このように戦国大名の名門、武田氏の基礎を築いた名将ではありましたが、その強烈なリーダーシップに対し、徐々に家臣や民の不満が高まり、1541年、嫡男の武田信玄(その当時は晴信:はるのぶ)によって追放されてしまいました。

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡地

 1541年、父 信虎を追放して家督を継いだ武田信玄は信濃への進撃を開始し、信濃の諸大名を制圧して領国の拡大を図りました。そして1553年、有名な「川中島の戦い」で上杉謙信と対決します。主な対決は1564年までに5回ありましたが、結局上杉謙信とははっきりとした決着はつきませんでした。

【川中島古戦場】武田信玄と上杉謙信の激戦地を写真で紹介

当時最強といわれた武田軍。
この像は武田神社ではなく、甲府駅前にある武田信玄像。

 その後も飛騨・美濃・駿河と領地を拡大していきましたが、上洛(じょうらく)を目指して三河で織田信長・徳川家康の連合軍との戦いの途中、病に倒れ、1573年53歳で病死しました。

 後継ぎの武田勝頼の頼りなさを心配していた武田信玄は、死に際に「自分の死は3年隠し通し、その間に国力を養え」という言葉を残しました。それでも当主となった直後の勝頼は織田軍、徳川軍に連勝し、さらに領土を拡げましたが織田・徳川連合軍と対戦した「長篠の合戦」で大敗を喫し、その後衰退を続けて1582年、味方の裏切りと織田軍に追い込まれて自害しました。

約400年続いた武田氏はここで滅亡したのでした。

武田氏を偲ぶ古城から「武田神社」建設へ

武田氏滅亡後、豊臣秀吉の時代に甲斐の国の政治の中心は躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から現在の甲府駅近くの甲府城(別名:舞鶴城)へ移され、武田氏3代の居館は1600年ごろに取り壊されてしまいました。

その後、江戸時代を通して館の跡は「古城」や「御屋形跡 (おやかたあと)」などと呼ばれ、武田氏時代を偲ぶ(しのぶ)ために旅行者が訪れる程度の場所でした。

明治時代に入ると父親の信虎を追放した親不孝な人物とする評価も存在していましたが、1904年(明治37年)の「日露戦争」をきっかけとして、武神や軍神を祀ることが奨励されたこともあり、軍神として知られる武田信玄を祀る神社建立の声が高まっていきました。

そして1919年(大正8年)、武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館の跡に「武田神社」が創建されることになりました。

御祭神はもちろん武田信玄公。ご利益は「勝運」。

観光地として甲府の中心となった「武田神社」

正面入り口

祝 七五三 の鳥居

長い参道を拝殿に向かって歩く

紅葉が始まった美しい武田神社境内

参拝者が並ぶ拝殿
「3種類」の御朱印が人気

切絵 立ち姿の御朱印

武田神社では3種類の御朱印をいただけます。

今回は立ち姿の御朱印をいただきましたが、他に座り姿の御朱印と武田神社の御朱印があり、座り姿の御朱印もいかにも信玄らしい座り姿の切り絵が載っていてカッコよかったです。


甲陽武能殿(こうようぶのうでん)
能楽や演武が演じられる
手を洗い、口をすすぐ「手水舎」

境内には当時からの濠、土塁、石垣、古井戸等が残り、宝物殿には国の重要文化財「吉岡一文字」の太刀をはじめとして武田氏ゆかりの品々や、当時を偲ばせる鎧・甲冑・刀剣などが展示されています。

宝物殿


創建時、各地から奉納された樹木は四季折々に美しく色付き、毎日大勢の観光客が訪れています。

祝 七五三 その2
祝 七五三 その3
静かで落ち着く神社奥の林道
林道を抜けると「お屋形さまの散歩道」

「武田神社」の地図