【甲府城】武田氏滅亡後の甲斐を治めた名城の歴史と見所を写真で紹介

 甲府城は戦国最強軍と恐れられた武田氏が滅亡後、天下統一をなしとげた豊臣秀吉の命令により、家臣の羽柴秀勝、加藤光泰らによって築城されました。

天下統一の要所となった「甲府城」

 甲斐の国は戦国時代、 武田氏の居館である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を中心とする武田城下町が整備されていました。

つつじがさきやかたの跡地に建てられた武田神社

武田氏居館の跡の武田神社から甲府市街を見下ろす

 1582年、武田氏が滅亡するとまず織田信長の領国となり、本能寺の変で織田信長が倒れると徳川家康が一時支配し、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、その家臣が甲斐の国を治めました。

 そして秀吉は、甲斐の国の政治の中心を武田氏の遺領である躑躅ヶ崎館から新しい城へ移すことを命じ、1593年の豊臣政権時代に甲府城が築城されました。

 この甲府城を中心として城下町も整備され、甲斐の国の政治の中心になると共に、秀吉にとっては江戸に住む徳川家康をけん制する重要な拠点となったのでした。

甲府城の天守台から眺めた甲府市街

甲府藩が整備した「甲府城」と城下町

1600年、関ヶ原の合戦後には、甲斐の国は再び徳川家康の支配下となり、1661年に徳川家光の四男の徳川綱重と、その子綱豊(後の6代将軍家宣)が甲府藩・甲府家をたてました。その頃城の大規模な修復がおこなわれています。

 1705年には甲斐出身で側用人(そばようにん)の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。

駅チカの観光施設として復元された「甲府城」

明治時代になると、甲府城は廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。そして城郭内は農業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、葡萄酒醸造所が設置されるなど近代化の道を歩み、徳川時代の面影は無くなっていき、1904年に「舞鶴公園」として一般市民に開放されました。

昭和に入ると公園内には武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)など公共施設が建てられ、昭和39年(1964年)には都市公園「舞鶴城公園」として都市計画が決定されました。

最近は舞鶴城公園整備事業として甲府城時代の建築物が美しく復元され、日本100名城に選ばれています。

復元された内松陰門
鉄門(くろがねもん)
鉄門(くろがねもん)復元について
天守台から城内を見下ろす。遠足かな。

「甲府城」の地図