「川中島の戦い」は、1553年から1564年にかけて、武田信玄と上杉謙信が北信濃国(現在の長野県北部)をめぐり、5度対戦した合戦の総称です。
中でも最も激しく多くの伝説を残した4度目の戦いの舞台となった八幡原は、現在「川中島古戦場史跡公園」として整備され、多くの歴史ファンを引き付ける名所となっています。
「川中島の戦い」とは?
なぜ戦ったのか
甲斐の武田信玄は、乱行の目立つ父・武田信虎を追放し、甲斐国内の実権を握ると、甲斐から外へと勢力の拡大を図ります。しかし関東や東海地方は強大な北条、今川が君臨していて、当時の戦力では手が出せる状況ではありませんでした。
そこでまずは信濃方面へ侵攻を開始し、諏訪・松本地方を手中にし、さらに長野方面へ進撃します。
この地にも二度も武田軍を撃退した村上義清など勇猛な武将はいましたが、武田軍の真田幸隆(真田幸村の祖父)の謀略に遭い、越後に逃げて上杉謙信に救援を求めました。
武田軍が越後に迫ることに危機感を持った上杉謙信は救援要請を受け入れ、信濃に出兵して武田信玄と対決することになったのです。
第一次合戦:布施の戦い
上杉謙信が参戦してきた事を知った武田信玄は、一旦甲斐へ退き、態勢を整えて3ヶ月後の1553年7月、再び甲斐を出陣します。
約1万の武田軍は、義清の籠る塩田城などを破竹の勢いで落とし、義清の残党を次々と蹴散らしながら、8月には川中島へ進軍します。対する謙信は約8千の兵を率いて布施(長野市)で武田軍の先鋒を破り、進撃をくい止めます。
その後、9月中旬まで小さな衝突を繰り返しましたが、大きく情勢が傾くような戦いはなく、上杉軍は9月、武田軍は10月中旬に軍を引き揚げました。上杉謙信としては北信濃を武田軍に完全制覇されることを防ぎ、武田信玄からすれば村上義清の本領は掌握することができたことで、両者ともそれなりの成果を得た初戦でした。
第二次合戦:犀川の戦い
第一次合戦の後も武田信玄は南信(信濃の南方面)から制圧を進め、ついには善光寺の別当職を味方につけて、長野盆地の南側を勢力下に置きました。
これを上杉謙信が見過ごす訳はなく再び出陣、1555年4月、犀川を挟んで対峙します。
しかし今回も両軍の力は拮抗しており、ほぼにらみ合ったまま200日余りが過ぎました。長期間による遠征で問題となるのはやはり兵糧不足と軍の士気の低下です。
武田信玄はこれ以上続けても消耗するだけと判断し、調停を今川義元に依頼し、10月には上杉謙信と和議を結びました。両軍がそれぞれの勢力を侵すことのないように撤退するように話がまとまりました。
和議を結ぶ条件として、信玄は最大限譲歩し「武田方の旭山城を破却する」ことと、「川中島一帯に領土を持っていた井上氏、須田氏、島津氏の帰国」を提示しました。謙信もこの条件には満足し、和議が成立したのです。
第三次合戦:上野原の戦い
和議を結んだ翌年には武田信玄が再び信濃北部への進攻を再開します。和議を破棄することを宣言し、講和の条件で領地を安堵されていた上杉側の国人衆に寝返りを促し、切り崩し作戦を始めたのです。
平気で和議を破る武田信玄に上杉謙信は激怒し、再び出陣。1557年8月、今度は善光寺の北側、上野原で対峙します・・・が、またしても激しい戦闘の記録は無く、両軍とも10月には撤退。3度目の合戦もほとんど睨みあいで終了しました。
しかしこの後、上杉謙信は室町幕府第13代将軍・足利義輝から「北信濃・争乱の平定の御内書」を与えられて武田信玄を討つ大義名分を得ることとなり、一方、武田信玄は最前線の北信濃に新たな拠点「海津城(現在は松代城とも呼ぶ)」を築き上げ、戦闘力をUP。
いよいよ本気でぶつかり合う決戦の準備ができたのです。
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第四次合戦:八幡原の戦い
1561年9月、いよいよ決戦の時が来ました。武田軍は「上杉軍の陣の後方から早朝に奇襲をかけ、あわてて山を降りる兵を、本陣が迎え撃つ」という「啄木鳥戦法」を計画していました。
しかし、戦の前の食事準備の煙を見て、謙信はまもなく襲撃がある事を見破ってしまいます。
上杉軍は、武田軍に気づかれないように静かに山をおり、夜のうちに千曲川を渡り、武田軍の本陣の目前まで進みます。
この時の様を詠った有名な詩が「鞭声粛々、夜 河を渡る」です。
そして、夜があけて辺りが見えてきたとき、武田軍本陣の目の前に、戦いの準備を整えた上杉の大軍がいたのです。
先手を取った上杉軍は先に戦った部隊が退くと見せかけて、今度は別の部隊が攻めてくるという「車がかりの戦法」で波状攻撃をかけます。
武田軍は防戦一方となり、このとき信玄の弟・信繁や、名軍師・山本勘助など軍の中心となってきた武将が討ち死にし、武田本陣は壊滅寸前となりました。
そんな武田本陣に上杉謙信が斬り込み、有名な一騎打ちが行われます。
馬上の謙信が信玄に三度斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを受け、信玄の側近が槍で謙信の馬を刺すと、その場を立ち去ったのでした。
軍配で受ける武田信玄
苦戦が続くもなんとか持ちこたえた武田本隊。そこに「啄木鳥戦法」に向けて上杉軍の後方にまわっていた別動隊が合流し、上杉軍を挟み撃ちにする形になったため形勢は逆転、不利となった上杉軍は敗走を始めます。
朝8時に始まった決戦は10時ごろまでは上杉軍有利。武田別動隊が合流してからは武田軍有利で戦いは続き、午後4時ごろには信玄も追撃するのを止め、この合戦は終わりました。
この合戦による死者数は、上杉軍が3千余、武田軍が4千余と伝えられ、激しい戦いであったことを物語っています。
ただし、この戦いでも明確な決着がついたわけではなく、戦後は両者ともに勝利を主張していたそうです。
第五次合戦:塩崎の対陣
激戦から3年後、最後の合戦といわれる両者の睨みあいがありました。駆け引きによる陣の移動をしつつ約60日間も対峙しましたが、お互いの強さを知り、前回の激戦のダメージもあってか両者ともむやみに戦いを仕掛けることはなく、最後の直接対決は終了しました。
「川中島の戦い」その後
武田と上杉が川中島で争っている間に「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を倒したことで、周辺国とのパワーバランスがくずれ、信長を中心とする新しい時代の波がやってきます。
上杉謙信は北陸で織田信長の重臣・柴田勝家と、武田信玄は信長と同盟を結んだ徳川家康と争うことになり、その後武田・上杉が直接対決することはありませんでした。
最大の激戦地「八幡原」を巡る
八幡社
当社は川中島の合戦よりはるか昔の平安時代に信濃の国に流された村上顕清という人が、この地を訪れ武運長久の神「八幡大神」をお祀りされた事が初まりとされています。
こじんまりとした鳥居から中へ進むと新旧の社殿が見えてきます。
八幡社の御祭神は
・誉田別尊
・建御名方命
ご利益は
出世開運、武運長久、武勇掲揚、勝利祈願、五穀豊穣 などです。
風林火山の旗
武田軍の軍旗である紺色の旗で、「疾きこと風のごとく、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」という「孫子」の教えを旗にしたものです。孫子の研究者でもあった武田信玄の軍隊運用術を象徴しています。
「毘」「龍」の旗
両側の白い旗は上杉軍の軍旗で、「毘」は上杉謙信が信仰した毘沙門天を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、ご加護があると考えられていました。
また「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時に先頭に立てて進んだ突撃用軍旗となっていました。2つの旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し、戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれています。
執念の石
上杉謙信に斬りつけられた武田信玄を助けに入った家臣の原大隅守虎胤はその場に置いてあった信玄の槍で馬上の上杉謙信を突きました。
しかし槍先ははずれて馬に当たり、驚いた馬は上杉謙信を乗せたまま一目散に走り去ります。主君を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石です。
一見、たわいもない石ですが、確かに不自然な貫通した穴があります。執念を感じる穴?です。
逆槐
山本勘助の進言によって「啄木鳥の戦法」をとることにした武田信玄は、この場所に土塁を積み重ねて本陣をおきました。その際、土塁の土留めとして自生していた槐の木を逆さにして打ち込んだものがやがて芽を出し、大樹になったと伝えられています。
槐は仏教の伝来とともに日本に入ったといわれ、中国では昔から学問と権威を象徴し、寺社や公園に多く植栽されています。
首塚
この塚はかつては「屍塚」と呼ばれ、武田方の海津城主「高坂弾正」が激戦地となったこの辺り一帯の戦死者の遺体を敵味方問わず集め、手厚く葬ったものです。
これを知った義に篤い上杉謙信は感激し、後に北条・今川の包囲網によって塩を絶たれて困っていた甲斐の国に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と塩を送り、高坂弾正の行動に報いたのでした。
このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」のルーツとも言われています。
以前はこの附近にいくつもの首塚がありましたが、現在は2つのみで、塚を壊して田畑にした者は、悪い病気にかかるなど祟られることもあったそうです。
御朱印
銀色の地に龍虎柄の重厚な御朱印。参拝した時点で8種類の御朱印が用意されていました。御朱印帳もバリエーション豊富です。