【甲斐善光寺】武田信玄が建て、源頼朝像も移された善光寺の歴史と見所を写真で紹介

甲斐善光寺(かいぜんこうじ)は武田信玄によって建てられた寺院で、信濃の善光寺とも深い関わりのある名高い寺院です。

信濃善光寺の御本尊を移した武田信玄

武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦は主に5回の対決がありましたが、戦いが激しくなってきた3回目の戦いの終結後、信玄は信濃善光寺の焼失を恐れ、1558年に信濃善光寺の御本尊、善光寺如来などを甲斐へ持ち帰りました。

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上杉謙信が武田信玄に塩を送る 塩の道 千国街道

信濃善光寺 御開帳後の静かな境内を写真で紹介

その年、甲斐善光寺が建てられ、信濃善光寺の三七世住職・鏡空上人を本願主として迎えました。

本堂から眺めた境内

甲斐善光寺には源頼朝像もある

 甲斐善光寺の「宝物館」には源頼朝の木造の坐像があり、頼朝の命日である1199年1月13日の日付が記されることから、最古の頼朝像とされています。

右手にあるのが宝物館

 1187年当時、信濃善光寺は創建が古いことから荒れ果てていた上に火災にも遭い、建物の基礎となる石だけが残っているような状態でした。

 そこで源頼朝が信濃国を治めていた執行者に命じて土木人夫を動員し、信濃善光寺を再建したのでした。その由来から信濃善光寺に「木造源頼朝坐像」が造られていたのです。

現地では撮影禁止だったので、パンフレットの写真を参照。劣化が著しかったが2021年に修復完了。天然の水晶の玉眼が入ったそうです。

 1558年に、武田信玄は信濃善光寺の本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を甲斐へ移しましたが、源頼朝像もこの時に甲斐国へ運ばれたものと考えられます。

武田氏滅亡後の甲斐善光寺

 1582年、織田・徳川連合軍による武田征伐によって武田氏は滅亡しました。善光寺如来は織田・徳川・豊臣氏を転々としましたが、1598年に無事、信濃善光寺に戻されました。

武田氏滅亡後の甲斐統治の中心、甲府城

江戸時代の甲斐善光寺は、徳川家の庇護を受け、大寺院として栄えました。

現在の甲斐善光寺境内

境内から見た甲斐善光寺の山門(正門)です。

歴史を感じる建物ですが、武田信玄が建立した当時の山門は1754年の失火によって焼失してしまい、現在目にできるのは1796年に再建されたものです。

それでも江戸時代中期を代表する建造物として、国の重要文化財に指定されています。



山門をくぐると松の木が並ぶ参道を歩きます。

参道の向こうに本堂が見えます。



本堂の前の常香炉で煙を浴びます。

元々は煙を浴びて心身を清めるという意味でしたが、煙をあてた部分の病気が治ったり、頭が良くなることの方が信仰されています。





金堂(本堂)も山門と同様に1754年の火災によって焼失してしまい、1796年に再建されたものです。

1766年から30年かけて再建されたそうです。


金堂の天井には、巨大な龍が描かれています。

こちらも撮影禁止だったのでパンフレットから。

その龍の真下で手をたたくと周囲からの反響によって乾いた音が響き渡ります。これを「鳴き龍」と呼び、このような仕掛けのある場所は「日光東照宮」など全国にいくつかありますが、ここが日本一の規模だそうです。



甲斐善光寺の御朱印です。

中央には「善光寺如来」と書かれています。

他にも「鳴龍(なきりゅう)」と書かれた御朱印や、季節や行事にあわせて特別な御朱印が用意されています。



地蔵堂です。

なんだか愛嬌のあるお地蔵さんが並んでいます。




銅鐘です。

武田信玄が信濃善光寺から引きずって運んだという「引き摺りの鐘」と呼ばれています。


「甲斐善光寺」の地図