【懐古園(小諸城址)】戦国武将が争奪戦を繰り広げた信濃の要衝

懐古園は、長野県小諸市にある、小諸城の城址を利用した歴史公園です。
小諸城は、城下町よりも低い場所に築かれた全国的にも珍しい「穴城」の形式で知られています。千曲川の断崖絶壁を天然の要害とし、堅固な守りを誇っていました。

武田信玄が要塞化した小諸城

小諸城を最初に築城したのは、戦国時代の武将である大井光忠だと言われています。
大井光忠は、戦国時代の信濃国(現在の長野県)佐久郡を拠点とした地元の豪族で、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄が信濃に侵攻してきた際に抵抗する拠点として「鍋蓋城(なべぶたじょう)」を築きました。

大井氏を攻略した武田信玄は、東信濃支配の拠点として小諸を重視し、信玄の命を受けた重臣、特に軍師として知られる山本勘助が城の設計を担当し、鍋蓋城を取り込んで新しい城郭を整備して、現在の小諸城の原型を築きました。

武田氏滅亡後の城主の変遷

1582年、織田信長によって武田氏が滅亡すると、小諸城は織田家の重臣である滝川一益が一時領有します。しかし、本能寺の変で織田信長が討たれると、滝川勢は関東甲信地方から撤退し、佐久郡の国衆である依田信蕃(依田芦田氏)が小諸城を領有します。
その後、徳川氏、北条氏、上杉氏、真田氏といった周辺の有力大名の間で、小諸城を巡る争奪戦が繰り広げられました。

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で功績を挙げた仙石秀久が5万石で小諸に入封します。秀久は、小諸城を近世城郭へと大改修しました。この時、三重の天守が築かれ、現在も残る大手門や三の門(後に再建)が構築されました。また、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠が小諸城に滞在し、真田氏の上田城攻め(第二次上田合戦)に出陣しましたが、苦戦を強いられました。
1622年、仙石忠政が上田へ転封となり、小諸城は江戸時代を通じて譜代大名の居城となります。

小諸城は戦国時代を通じて、戦略上の重要性から多くの武将たちの思惑が交錯する舞台となり、その支配者が目まぐるしく変わっていきました。特に武田信玄と仙石秀久による改修が、現在の小諸城の姿の礎を築いたと言えます。

明治維新後、小諸城から懐古園へ

明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となった小諸城は、その後、小諸藩の元藩士らによって明治政府から買い戻され、大正15年(1926年)に、明治神宮の森や日比谷公園等の植栽設計も手掛けた本多静六により、小諸城址懐古園として近代的な公園に生まれ変わりました。日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選にも選定されています。


懐古園(小諸城址)三の門

国の重要文化財に指定されている三の門は1615年に、当時の城主であった仙石忠政によって建てられました。
1742年に千曲川流域を襲った「戌の満水(いぬのまんすい)」と呼ばれる大洪水で流失しましたが、1765年から1766年にかけて再建され、現在の姿となりました。現在は懐古園の正門として使用されています。

懐古園(小諸城址)大手門

懐古園の大手門は、小諸城の正門として使われた門で、重要文化財に指定されています。

この門は、櫓門(やぐらもん)と呼ばれる形式で、石垣の上に建てられた2階建ての建物です。城の防御力を高めるために、門の扉を破ろうとする敵を2階から攻撃できるように設計されています。1階部分には門扉があり、2階部分は敵を見張ったり、武器庫として使われたりしました。

小諸藩士の想いを後世に伝える「懐古神社」

懐古園の懐古神社は、明治時代の廃藩置県によって城が役割を終えた後、小諸の歴史と文化を守ろうとした人々の思いから建てられた神社です。

明治4年(1871年)に廃藩置県が行われると、小諸城は藩の役目を終え、明治政府によって民間に払い下げられることになりました。多くの城が取り壊される中で、小諸城も荒廃の危機に瀕していました。かつての小諸藩の旧士族たちは、この状況を憂い、資金を出し合って城郭の一部を買い取り、保存に努めました。

そして明治13年(1880年)に城跡が「懐古園」として整備された際、旧士族たちは本丸跡に「懐古神社」を建立したのでした。

懐古神社の御祭神は、以下の三つを合祀しています。
1.小諸藩を治めた歴代藩主の霊
2.廃藩天満宮(菅原道真公)
3.火魂社(火之迦具土命)

【懐古園(小諸城址)】の地図