信州・上田城は二度の上田合戦で徳川を退けた難攻不落の城です。真田氏の後も仙石氏、松平氏により上田藩のシンボルとして守られてきました。
名城・信州 上田城
上田城は真田幸村の父である知将、真田昌幸によって築城されました。北に太郎山、南に千曲川があり、東側も蛭沢川や湿地帯などがあるため平城(ひらじょう)ながらも非常に攻め難い城でした。
長年仕えてきた武田家が織田信長によって滅ぼされ、その織田信長も本能寺の変で倒され、混沌とした戦国時代末期に建てられたその城はまさに難攻不落であり、巨大な兵力の徳川軍を2度、撃退しました。
アニメ映画『サマーウォーズ』では舞台となる家の門が上田城の城門をモデルに描かれています。
徳川家康と上杉景勝の援助で完成した上田城
真田氏は武田信玄に仕えていた真田幸隆の頃から頭角を現し、子、真田昌幸も知将として名をはせました。
武田氏が滅亡後に徳川方に就いていた真田昌幸は、1583年に徳川家康の援助を受けて上田城の築城を始めました。
しかし、徳川家康は豊臣秀吉に対して背後の守りを固めるため、小田原の北条氏直と手を組むために真田に対し、北条氏に領地の一部、上州沼田を引き渡すように命じ、真田昌幸はこれをきっぱりと拒否します。
すっかり徳川を敵に回した真田昌幸は徳川軍の攻撃に備え、当時信州の更埴地方まで勢力を伸ばしていた上杉景勝に次男・幸村を人質として差し出し、築城やその他の援助を求めました。
1585年の8月には徳川勢が約7,000の大軍で真田領地へ攻め込みます。しかし、真田勢はわずか騎馬200、雑兵1,500程度ながらも地の利を生かし、術策を駆使して神川まで押しもどし、おりからの神川の増水もあって徳川軍を大混乱に落とし入れて撃退しました。
そして直後の9月には上田城が完成したのです。
上田城は最初は徳川の援助を受け、築城の途中からは上杉の援助を受けて完成に至っており、仕える主人を転々と渡り歩いて戦国を生き抜いた真田の象徴となる城だったのです。
犬伏の別れから第二次上田合戦へ
豊臣秀吉の死後、実権を握っていった徳川家康に対抗する石田三成をはじめとする勢力が挙兵しました。真田昌幸・信之・信繁(幸村)は徳川家康の発した号令に従い、徳川方の東軍に合流するための移動中、犬伏の地に駐屯していたところで石田三成側の密使が訪れ、西軍に味方するよう要請されます。
徳川家康の重臣・本多忠勝の娘を妻としていた信之は徳川方につくことを主張し、徳川が嫌いな真田昌幸と豊臣方への忠義の心を持つ信繁は西軍へつくべきと主張します。激論の結果、昌幸・信繁(幸村)は石田三成方の西軍に、信幸(信之)は徳川家康の東軍につくことに決め、この犬伏の地で離別しました。
戦国時代末期の最後の決戦ともいえる関ヶ原の合戦を目前にしてのこの決断は、西軍・東軍どちらが勝っても真田家滅亡を防ぐ生き残りの選択だったのです。
上田に戻った昌幸らは上田城に篭城(ろうじょう)し、関ヶ原の合戦に向かう徳川秀忠軍38,000人をわずか3,000の兵で翻弄します。
信濃国分寺での対談では上田城を明け渡すよう要請してきた徳川秀忠軍に対し「味方を説得するので待ってほしい」と伝え、返事を引き伸ばしたあげく、合戦準備を進めます。
攻め込んできた徳川軍に対しては戦っては退き、退いては戦いを繰り返し、第二次上田合戦と呼ばれるこの合戦でも結局、徳川秀忠軍は上田城を攻略することはできず、関ヶ原の合戦にも間に合わないという失態をおかすことになりました。
関ヶ原の合戦後の上田城
関ヶ原の合戦で敗退した西軍についていた真田昌幸、真田信繁は九度山に幽閉されます。東軍についていた真田信之は上田藩主となり、上田の礎(いしずえ)を築きましたが、上田城は取り壊されました。
築城主の真田昌幸は幽閉先の九度山で10年余りを過ごした後に病死し、大阪夏の陣で弟・幸村が戦死した後の信之は松代へ移り、真田氏の上田での歴史は幕を閉じました。
しかし松代に移った真田信之は92歳という高齢で隠居するまで、松代藩主を務め、その後も真田家は江戸時代、明治維新を経て現在も存続しており、「犬伏の別れ」の目的である真田家の存続は見事に成されているのです。
信州 上田城を復興した仙石氏
慶長5年(1600)仙石秀久・忠政父子は徳川勢の一員として第二次上田合戦で上田城攻撃に加わりました。仙石忠政は、慶長19年(1614)に死去した秀久の跡を継いで小諸城主となり、荒廃していた佐久郡の農村復興に力を注いでいましたが、元和8年(1622)に上田へ移封となりました。
忠政は、農村だけでなく、上田城及び城下町の整備にも力を入れ、慶長5年(1600)の関が原の合戦後に取り壊された上田城を、復興しました。実は将軍徳川秀忠から破却されたままの上田城の修理料として銀子を与えられ、思うままに修理せよとの命を受けたといわれています。上田城の普請については、寛永3年(1626)4月に幕府の正式な許可が出ています。
しかし、忠政は二年後の寛永5年(1628)病没し、上田城復興の普請は中断されました。そのため、二の丸には門もなく、櫓などの建物も設けられませんでした。本丸については、石垣と隅櫓及び櫓門は築かれ、今日に至るまで、上田城の、そして上田市のシンボルとして伝わっています。
7代にわたり、上田藩を治めた松平氏
宝永3年(1706)、出石藩(兵庫県豊岡市)から松平忠周が入封しました。
三河在住時代以来の徳川一族で、藤井松平氏とも呼ばれる松平氏は、明治維新に至るまで7代、160年余にわたって上田藩を治め、譜代大名として幕府の要職をたびたび務めています。
特に6代忠優(忠固)はペリー来航に始まる幕末の動乱期に二度江戸幕府の老中になり、国政にあたりました。松平氏時代は上田の経済発達や産業振興にともない、上田独自の文化が育まれ、幾多の人材を輩出しました。
歴代の上田城主を御祭神とする真田神社
上田城本丸跡に鎮座する当社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していました。
1953年に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社へと改称したものの、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、1963年に眞田神社と再度改称し今日に至っています。